ジェームズ・ペンダー・モリソン

 先週の金曜(11月29日)の朝日新聞の朝刊に神奈川沿線版というコーナーがあって、そこに「天皇賞はここで生まれた」と題して旧横浜競馬場の一等馬見所を紹介する記事が載っていた。横浜中区にある根岸競馬場といわれていた、日本初の西洋式の競馬場後に残る歴史的な建造物である。新聞に大きく写真も掲載されているがその写真だけでは何のことかわからない。確かにそれを目の前にしても説明を聞くまで何のことがわからないだろう。しかし、なにはともあれそれを目の前にするとその巨大さのスケールには度肝を抜かれる。現在は何の脈絡もない状態にあるのでまさに巨大なモアイ像が立っているようである。私は突然これを目にしたとき久しぶり言葉を失ってしまったことを覚えている。
 そんな記事を目にした一週間後、の12月2日の朝日新聞の「湘南」のページで「幕末クリケット150年の雪辱」という記事を読んだ。内容は「英国生まれのクリケツトは野球の原型と言われ、ボールをバットで打つなどして得点を競う。日本では1863(文久3)年に横浜で在留外国人チーム「ショア(岸)」と英海軍チームが対戦し、英海軍が大勝したという。この5年後に創設された「横浜クリケットクラブ」の後身にあたるYC&ACが、英海軍の軍艦が入港するのに合わせて再戦を打診し、実現した。結果は新聞のタイトルにあるように雪辱したのだが、現代のチームショアはYC&AC、在日英国大使館員、日本代表の混成チームで156対67の大差で勝った。試合は横浜市中区にある日本に現存する最古のスポーツクラブYC&ACのグラウンドだ。
 競馬とクリケットといういかにも英国色の強い娯楽を日本に紹介した立役者こそ今回のテーマである「ジェームス・ペンダー・モリソン」なのだ。ウィキペディアのYA&ACをみると最初に創立の経緯が書いてある。「1868年英国商人より組織された会員制クリケットクラブが前身~」とここで云っている英国商人こそジェームス・ペンダー・モリソンである。

 2年前の1月、小春日和の日を選びジェームス・ペンダー・モリソンが関東大震災まで住んでいた横浜市旭台の住居跡に出かけた。横浜居留地の名士でもあったかれはここに3000坪の土地を持ち、故郷スコットランドの城の名前を付けた住居を構えていた場所であったからだ。ここは目の前に根岸の海が見渡せ、背後には根岸の競馬場の緑が広がるといったところでモリソンが住んでいた明治の終わり頃の風景を想像すると絵になる場所だったに違いない。ただ、現在、海の前に建つコンビナートの灰色のタンクや建物で残念ながら、海はほとんど見ることはできない。もし、確認したければこの地に建つレストラン「ドルフィン」に行くといい、このなんともふた昔前のゴージャスさをもったレストラン、松任谷由実に歌われたくらいなので、そのころが華のレストランであるが、そこのベランダに出ると根岸の海が一望である(実はコンビナートが…)。
 このあたりは山下町にあった居留地の商人たちが職住分離の結果住みついた、山手の洋館群の発展した最果ての場所である。現在、山手にあるエリスマン邸を代表とする8館の洋館が観光施設として残っているが、明治時代の最盛期にはこのあたりは全て洋館で埋め尽くされて、その風景は昔の写真を見る限り日本であることが信じられないくらいである。
 当初、モリソンは山下町の居留地48番地にオフィス兼住居を構えていた。「モリソン商会」といわれているが、正式にモリソン商会になったのは1885年、モリソン41歳になってからで、それまで、モリソンはジェームス・キャンベル・フレーザーという同郷の先輩の下で働いている。
 この住居跡が唯一山下町の外国人居留地の跡として発見されて遺構として残っている。場所は神奈川芸術劇場の一角である。奇跡的に残ったこの建物は原型の建物をどのような経緯がわからないがその後の持ち主が倉庫のようなものに改築した、その後、昭和になって持ち主がそんなに価値あるとは思わずに壊わそうとした。それを研究者が偶然見つけ、上塗りされたモルタルなどを剥がすと原型の48番館と彫ってある銘板が発見されて、それがオリジナルの48番館の銅版画と同じであることがわかり、それを山下町の居留地、唯一の遺構として神奈川県指定重要文化財として県が残すことに決めた。
 番号が48番と若いのはそれだけ横浜への進出が早かったことを意味している。ちなみに1番は現在も隆盛を誇る巨大コングロマリット、ジャーデン・マディソン商会であった。現在、シルクセンターがある場所がそこにあたる。横浜の居留地の発端はあの不平等条約である「日米修好条約」を初めとした、いわゆる「安政五か国条約」に開港場に居留地を設置することが決められたからである。横浜には2つの居留地がある、山下地区と山手地区である。山下地区は現在の山下町で海と横浜スタジアムを結ぶ、海に向かって日本大通りの右側、堀川まで、後ろはスタジアム前から堀川にかかる西の橋までが境界線である。実はこの間も当時は川であった。したがって日本大通り以外の三方は川と海で閉じられていたことになる。外国人を閉じ込めておく意図があったからである。この中には有名な中華街もあるがここはいわゆる中国人の居留地の発展したものである。
 また、他の町の面積と比べると巨大な町が山下町であるがこれは居留地があった名残であろう。たとえば、日本大通りを挟み右側は山下町一つであるが反対側は港町、真砂町、常磐町、住吉町、相生町、太田町、弁天通り、南仲通、本町、北仲通、元浜町と10の町がある。このあたりは居留地とのビジネスを目的とした日本の商店などが軒を連ねていたのでそこの屋号が町名に反映されたのではなかろうかと思われる。
 どこの国にも居留地があるのはその国の人との無用なトラブルを避ける意図からもうけられたものだが、鎖国をしていた日本の場合はそれ以上の意味があったようである。また、居留地住む人には遊歩規定というモノがあって半径十里(40キロメートル)以内しか自由に出歩けないことが決まっていた。ただ、そうは言ってもその中でも事件は起きる、生麦事件がいい例だ。居留地内は日本人の出入りは制限されていたのでトラブルは外国人同士のそれしか起きないが、遊歩規定の範囲内では外国人と日本人が接触する。
 わが鎌倉は遊歩規定の範囲内にある観光名所なので自由に外国人が闊歩で来たので、生麦事件ほど有名ではないが同様の事件は起きている。現在の下馬の交差点で英国陸軍士官ボールドウィン少佐とバード中尉が浪人2人に斬殺されたのだ。その2年前に生麦事件が起きたので幕府の威信をかけた懸命の捜査を行い、直ちに捕えられ処刑された。明治に変わる4年前の1864(元治元年)年のことである。かれらは秋の真っ盛り鎌倉大仏を見にはるばる馬で遠乗りに来た帰りである。この下馬から真南に直線距離で900メートルいったところにジェームス・ペンダー・モリソンの終焉の地がある。かってモリソン屋敷と言われた洋館群があったところである。
 ジェームス・ペンダー・モリソンは開国しつつある日本でビジネスをするためにはるばるイギリスから来た商人である。長崎グラバー邸で有名なトーマス・グラバーと同じ、スコットランド出身の商人である。グラバーは1838年にアバディーンに近い港町フレーザーバラに沿岸警備隊の一等航海士の息子として生まれた。一方、モリソンは1844年に当時、ロンドンに次ぐ大都市グラスゴーで商人の息子として生まれた。モリソンとグラバーの年齢差は6歳であるがその後の人生は驚くほど似ている。グラバーは19歳で上海に渡り、21歳で長崎にきた。一方、モリソンも1864年(元治元年)に20歳で上海に渡り、その2年後、22歳で横浜に来日している。それぞれ、商人として大成功をおさめ、日本国家に貢献し、周りの多くの日本人から愛されて、天寿を全うし、それぞれが花開いた、長崎と横浜に眠っている。
 また、仕事だけでなくその英国式のライフスタイルを日本に持ち込み、日本人のライフスタイルや生活の楽しみ方に直接、間接的に影響を与えた。モリソンは冒頭にも書いたようにクリケットや競馬を通してスポーツを、また後ほどふれるつもりだがオペラや音楽を生活の中で楽しむヨーロッパ人のライフスタイルを日本という場で実践した。鎌倉のモリソンの家でのパーティーには当時の紳士淑女が呼ばれ、波の音が聞こえるモリソン邸のその模様は真っ暗闇の中に煌めいて、遠く坂之下や稲村ケ崎からも見えたといわれている。
明治期の鎌倉は横浜に次ぎ外国人の居住者が多い土地であった、モリソンのように横浜の居留地で働く成功したビジネスマンのほかに、ロシア革命で祖国を追われた亡命者にとっても鎌倉は日本の他の土地に比べて住みやすかったようである。
 その中には日本バレーの草分けともいえるバレリーナのエリアナ・パブロバの家族もいた。日本に帰化したエリアナは霧島エリ子と名を変えて日本軍の軍人慰問で南京に赴むきそこで亡くなった。戦病死になった彼女の御霊は靖国神社に祀られている。そのエリアナも元気なころモリソン邸で開かれた音楽会に招待されたようである。石橋湛山の娘である千葉歌子はそんな思い出を記憶していた。モリソン邸の音楽界は当時、日本を訪れた世界的な音楽家も顔を出す特別な場所だったようだ。ヨーロッパなどでは由緒ある地方の名士がこのような個人的なパーティーや音楽界を開くようなことが行われているようだが、そのようなことが出来たのもモリソンならではの教養と財力があったればこそである。

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