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「光悦はばたく:風の巻」の脱稿

 調べてみると丁度2年かかったようである。風の巻は150枚の原稿なので、400字詰めの原稿に換算すると丁度500枚になる。したがって、これまで1300枚の位書いたろうし、全巻書き上げると2000枚くらいになるのかもしれない。空の巻は700枚の勘定である。
健康で認知力の衰えが緩慢であることが前提であるが?風の巻では祖父母である芙久(妙福)と片岡治太夫宗春が結婚したことで終わっている。
 丁度、二年かかっている。したがって、これまでこの本に4年近くかかっていることになる。多分、最後の「空の巻」も2年はかかるだろうから、ちょうど80歳で書き上げたいものである。普通?ならば最後になる長編といいたいところだが・・・?しかし、長編は時間がかかるので、これからは1作2年くらいで書き上げられるもので、あまり検証を必要としないものを書きたいがどんなものであろうか?
 まあ、これだけの長編を書けるということは一応の進歩の自己確認の気がしないではない。ただ、残念なことは次が書けないということだ?寿命のため。
バーナード・ショーいつまで書いていたのか?wikを調べると90歳?まで現役のようだった、その後は現実的な話で庭の手入れで梯子から落ちたらしい。
それは別として90歳まで大丈夫か?ということは後13年はいけるのか?本当かなら良いが。ただ、やはり問題は何らかの事故か?いずれにしてもあと2年以内に光悦を書かないと納まりがつかない。
 光悦に関しては清張の呪縛から逃れられた気がしないではない。ただ、調べていくうちにどう変わるかわからない。というのはいわゆる本阿弥行状記に関連する人たちがあまり正直な人たちではないような気がするからだ。つまり、何のために書いているのか?何を伝えたいのかを考えるとどうも自分たち一族がどれだけ優れている人たち?であるかを書いているだけに過ぎないような気がするからで。一般的に見るとそこのところが正直には見えないのである。光悦の秀逸性を示すために両親の光二と妙秀に関する逸話を書いているが夫の窮地を救うために女房の妙秀が織田信長の馬の轡に飛びついて弁明をするあたりの話は美談にしても本当なのか?走っている馬に身長150センチに満たない、体重も45キロに満たない?若くもない女性が飛びつく様が考えられない。しかし、その頃の馬がロバのような小さな馬なら可能だが?確かにサラブレッドのような馬ならありえない話になるのだが?
そのような美談と言うより荒唐無稽な逸話に対してどう扱うかなどの課題は多そうである。―そんなことを思いながら林屋晴三の本を読むとかなりシリアスに本阿弥行状記のいかがわしさや光悦にまつわる話の検証できないことをどう判断するのかというような問題点を指摘してあった。
 そう考えると光悦にフォーカスを絞りその真摯な作品から物語を紡いでいったほうがいいような気がしないではない。多分、光悦もそれを望むのではないか?それと行きがかり上、宗達とのかかわりを書き込んでいくことがいいと思われる。現役時代の宗達についても書くことができるからだ。・・・そうすると書く意味も出てくる。「宗達はじまる」と「光悦はばたく」はここで結びつくことになるので独自な視点でユニークなものに仕上がる気がしないではない・・・この着想は捨てがたい!
 と言うのは「宗達はじまる」で宗達の生まれた時と亡くなった時を書いた作者が。宗達が生きた時を書くのは当然だと思うからだ。
                          2024年4月22日T.I

 

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